「よお,ガスト。お陰さんで俺の“チェンバース”,すんごく調子がいいぜ!!」 午後の仕事を終えた男達の,汗と油の臭いが充満するラウンジに,満面に笑みを浮かべたトミィの声が響いた。 ガストはいつものように,ラウンジの隅に置かれた木箱に腰掛けて,安煙草をふかしているところだった。 汚れた手でコーヒーの入ったポットをつかみ,縁の欠けたカップにコーヒーを注ぐトミィには目もくれず,ガストは煙草をふかし続けた。 トミィはガストの横の床の上に腰を下ろすと,話を続けた。 「まるで魔法使いだな?昨日とエンジンの回りが全然違うんだもんなぁ。俺の気のせいかも知れねぇけどよ,旋回も早くなったような気がするぜ!」 ふと見ると,トミィの耳の毛がバサバサになっていた。 “奴のことだ,どうせ今日も飛行帽の顎紐絞めないで,無茶な飛行をしたんだろう” ガストはそんなことを思った。 よほど自分の腕に自身があるのか,単にものぐさなのか,トミィは飛行帽を被らないことや,ゴーグルさえ掛けずに飛ぶことが多かった。 “一度怖い思いをしなけりゃ,一生被らないんだろうな,こいつは” 「一体どんな魔法を掛けたんだ?えぇ,ガストぉ?」 「別に何もしちゃあいねぇよ。ただ,チェンバースが持っている性能を,お前が十分に引き出せるように,ちょっといじっただけだよ。何しろお前の操縦ときたら,普通じゃねぇからな」 「・・・・はぁ?」 「チェンバースはいい機体だがな,お前の飛ばし方に機体の方が追いついてこないんだよ。だから,多少無理が利くようにエンジン回りとフラップをちょっといじっただけだ」 「・・・・よく分かんねぇなあ〜!」 「簡単に言うと,基本性能をちょっと引き上げたってことだ」 「何をしたのかよく分かんねぇけど,やっぱ,スゲェよ,お前!」 安い煙草を深くふかすと,まだ半分以上残っている煙草を,無造作に灰皿に押しつけた。 褒められて悪い気はしない。 ガストの仕事を嫌みたっぷりに褒めちぎる奴もいるが,トミィの言葉に邪気はない。 以前は嫌な野郎だったが,ジェームス=ハドソンとの一件があって以来,一皮むけたと言うか,本当の自分を素直に出し始めたというか,ともかくもガストはトミィのことを好きになっていた。 何故人は自分を隠して生きようとするのか? ガストには理解できなかった。 “自分であり続けることは楽しいことなのに” だがそれは,ガストだからこそ出来る生き方。 ・・・・だから,そんなガストの生き方に反感を持つ者が多いのも事実だった。 「でもよ,分かんねぇなあ〜」 トミィの口調が変わった。 「そんだけの腕を持つお前がだよ,何で飛行機いじりまわすだけで満足してんだ?お前のその知識,技量,どれをとってもエンジニアだけやらしておくんじゃあもったいねぇよ!!」 そのトミィの口調には,自分よりももっと高く,もっと早く翔ぶことが出来る者と競い合ってみたいという期待感が感じ取られた。 実際,仏蘭西のジム=フィッシャーに最近快勝続きのトミィより,早く高く翔ぶことが出来る者は欧州にはいなかった。 「別に,エンジンいじり回すだけしかしてないわけじゃない。大学で講師もやってるし,コルドン・モータースの顧問もやってる・・・・」 「そこだよ,そんだけ出来るお前がだよ,何で飛行機を翔ばそうとしないんだ? まさか,翔ぶのが怖いってわけでもあるまい?」 「んんん〜? 別に怖いってわけじゃない。ただ,空を飛ぶより地べたに這いつくばって生きる方が好きなだけだ」 抑揚のない,感情が感じられない答え。 トミィはこれ以上煽っても無駄だと思った。 「そっか・・・・・・」 今はこの場を空けた方が良さそうだと立ち上がると,ガストも続いて立ち上がった。 相変わらず猫背の悪い姿勢。 そのくせトミィよりも頭半分は高い身長。 “こいつが背中伸ばしたら,一体どれぐらいあるんだ?” ふと,そんなことを考えてしまう。 いきなりガストの大きな顔が寄ってきたかと思うと,トミィの耳元でそっと囁いた。 これも他人から嫌がられるガストの癖。 「明日,またチェンバース診てやるよ」 ガストの大きな掌がトミィの背中を叩く。 思わずよろけて, “何でこんなごっつい手で,あんな細やかな作業が出来るんだ?” と思ったときには,ガストの姿は既にラウンジの外にあった。 飛行場の芝生の向こう,山の端に陽が沈みはじめていた。 空の青と朱,雲の白と紺,草の緑と山の黒,そして陽の燃える金。 大英美術館に数あるどんな絵画の絵空事よりも美しい現実の色,風景。 ガストはそこに座り込み,かつて一度だけ空を翔んだ時のことを思い出した。 かつて,ガストにも空に憧れた刻があった。 “この空の向こうにはどんな景色が広がっているのだろう?” “あの山の向こうには,何があるんだろう?” どこまでも翔んで行きたかった。 “何故親父達は,これを見ようとしないんだろう?” 美術館の絵画はすばらしい物ばかりだった。 ケープ家,本来ガストが住んでいた屋敷に飾られた絵画も,どれも美しい物ばかりだった。 しかし,絵画は結局は絵でしかなかった。 いつまでも変わることのない理想的な美。 それは虚構でしかない。 そこから,目に見えて生まれてくる物はなかった。 “何故親父達は皆,こんな嘘で閉じられたここでしか生きようとしないんだ?” “自分の力で得たわけではない,家柄や財産だけを自慢しあう此処の何が楽しい?” それ故にガストは,彼の住む世界の者達の言う『愚行』を繰り返した。 その度に屋敷に連れ戻され,古い頭しか持たない両親の愚痴を聞かされる。 執事や召使い達に陰口をたたかれる。 それは苦ではなかった。 むしろ,“変化のない,止まった刻の中に生きている者達に与えてやっている刺激”だと思っていた。 だから,楽しかった。 常に変化を続ける世界の仕組みや技術を知るのは快感にさえ思えた。 ・・・・だから,自分の世界しか持たない親父が死んだときに,家督相続権を弟に譲り,家名を捨てて家を出ることに,誰も反対しなかった。 母親の心配そうに声を掛けながらも,目の奥に安堵の色が見えるのにも驚かなかった。 そして,『ガスト=C=ケープ』は自由を得て『ガスト=ケイプ』になった。 自由・・・・何の当てもなく,明日の食事に事欠くかもしれなかったが,ガストはどんなことをしてでも生きていく自信があった。 ★・・・・・・そう,彼は根っからの『楽天主義』だったのである・・・・・・★
そんな彼だから,何とかなってしまうのであった。 勿論,それだけの力が彼に備わっていたのも事実である。 ・・・・・・彼がマック=ベインと出会ったことは偶然であったにしろ・・・・・・。 街外れの裏道で,車がトラブルを起こして難儀していたマック=ベインに声を掛けたのも,ベインが有名人だったからではなく,車に関心があったからに他ならない。 このご時世に,自家用車を持っているのは貴族か大企業の重役クラスといった金持ち達だけだったが,彼らが自分で車を運転するわけがなく,運転手を雇っているのが普通である。 しかし,エンジンのカバーを空けてあちこちいじり回している中年の男は,身なりこそきちんとしていたが,貴族や会社の経営者,ましてや運転手にも見えなかった。 「やぁ,どうしたんだい? おっさん・・・・」 ふいに声を掛けられ驚き,頭を上げたベインは,開かれたエンジンカバーに思い切り後頭部を打ち付けた。 「・・・・マヌケだな?」 「・・・・・・君こそ失礼だろう。急に後ろから声を掛けるなど!」 「じゃあ,そのエンジンの中から声を掛ければ良かったのか?」 変なことを言う若者だとベインは思った。 自分よりも頭一つ半は大きな身長にがっしりした体格,それには不釣り合いな無精髭と,腰まで伸びた美しい金髪,垂れた前髪で読めない表情。 しかし,粗野な感じの中にも知性を感じさせた。 ・・・・どうやら物盗りのたぐいではなさそうだった。 前髪の間から見える鋭い眼差しが,じっと自分を見据えている。 「・・・・何かね,君?」 「いや,アンタの顔,どっかで見たことがあるなぁ〜ってな・・・・」 「ふん,君のように世間に関心のない若者には私を知らなくて当然だろう。私は,マック,マクシミリアン=ベインだ」 あっ,と思いだしたようにガストが手を叩いて言った。 「ああ〜,あんたが“オレンジ・ライト”のアル家をぶっ潰したマック=ベインかぁ?」 「なっ!?・・・・何でそのことを?」 「名門の家柄に嫌気がさして家を出て,嫡子がなかったためにアル家は断絶。でもアンタは今や欧州イチの飛行機乗り,そしてエンジニア,・・・・だろ?」 初めてあった得体の知れない若者の言葉に,マックは驚きの色を隠せなかった。 「た,確かにそうだが,なぜそれを? 私がアル家を出たということは秘・・・・」 「まあ,いいじゃないか? それより,そのマック=ベインがこんな所で何してるんだい?」 「あ?・・・・ああ。車がエンジントラブルを起こしたらしいんだが,どうもな・・・・」 あまりにも開けっぴろげな若者の態度に,マックはつい答えてしまった。 「どれどれ・・・・」 「き,君っ!!」 勝手にエンジンをのぞき込む若者を止めようとしたが,無駄な努力だった。 若者は頭だけをエンジンのあちこちに突っ込んでいた。 (なにをしているんだ,こいつは?) 多少イライラしながらベインは口を開いた。 「・・・・君!?」 「ガストだ!」 ガストと名乗る若者は,まだ頭を突っ込んだままだった。 「ガスト・・・・君,君はこの燃油燃焼機関の知識が?」 「ねぇよ,そんなもん!」 「だったらよけいな・・・・」 ベインがガストの肩をつかんで引き出そうとしたとき, 「仕組みはよく分かんねぇけど,こっちから油が漏れて燃焼させる点火機まで上手く伝わってないんじゃないのか? 亀裂から不純物も混ざっているようだし・・・・・・」 「何?」 ガストの言うままに調べてみると,その通りだった。 「何故だ?・・・・君はさっき,知識は持っていないと」 「ああ,全然知らねえ!」 「だったら,何故?」 「マジかよ・・・・・・?」 あんたほどの男が,そんな簡単なことも分からないのかよ,というように,大きくため息を付くと,ガストは答えた。 「・・・・匂いだよ!!」 「匂い?・・・・そんな!?」 “こんな小さな問題を,匂いで見つける? 彼の鼻はどうなっているんだ?” ★・・・・・・それが,ガストとマック=ベインの出会いだったのである・・・・・・★
そんな彼らだったから,ガストがベインの飛行場で働き始めたのも,ベインを通してガストの存在を知った新鋭のコルドン=モータースが彼を顧問に迎えたのも,そして,やがてガストが大学で機械工学を教えることになったのも必然であった。 しかし・・・・・・・・ ベインには未だにガストの人間性が理解でなかった。 確かに与えられた仕事は出来る。 それも完璧以上に。 しかし,一体いつ仕事をしているのだろうか? 気が付けば,いつも彼は,滑走路の防護壁用のクッション材である藁束の中で,藁にまみれて寝ている。 エンジニアであるにもかかわらず,作業所で平気で煙草を吸う。(他の者が吸っていると,「危険だ」と言って激怒する) 仕事場に公然と彼女を連れ込んで,行為をする。 たれかがトラブルを起こすと,何故かどこにでも現れて,いつの間にか丸く収めてしまう。 良く言えば誰にも束縛されずに自由に生きている。 自分の思うままに,自然のままに。(実際,仕事中はズボンこそ履くが,あとは自然のままの姿・・・・・・) 悪く言えば,勝手気ままで協調性がない。 だが,どこか憎めないところがあった。 既にこの時代を生きるには古くなりすぎた自分には出来ないことを彼はやってくれると感じていた。 既成概念を全てブチ壊して!! だから,彼には必要以上のことを言うことはしなかったし,求めもしなかった。 彼が求めない限り,こちらから与えることもしなかった。 そして,ひと月,ふた月と刻は流れていった。 毎日が同じことの繰り返し。 何人かの若者が事故で命を落とし,何人かの若者が,夢を求めてやってきた他は,何も変わらない日々。 マック=ベインは,ますますガストの才能が惜しくなってきた。 ・・・・だから, 今日は火曜日。 大学の講義は水曜と金曜の午後。 コルドン=モータースへの出向は月曜日の午後。 今日は“ここ”にいるはずだ。 「トミィ,ガストを見なかったか?」 「ガスト? いんや,見なかったっスよ」 薄暗い格納庫の中で,コクピットに潜り込んだまま,顔も出さずにトミィが答えた。 “・・・・そうだろうな” 妙に納得して,隣の格納庫に足を向けると, 「ガストなら,1時間ぐらい前にB倉庫入り口の“ベッド”に潜り込むとこ見ましたよ」 と,ジェームスの声がかかった。 振り向くと,鼻先をオイルで汚したジェームスが,トミィのチェンバースのエンジンカバーを閉めるところだった。 「そうか,すまんな,ジム」 そう言ってA倉庫からB倉庫へ足を移しながらも,あの2人がコンビを組んで仕事をするようになったことを,ベインは嬉しく思っていた。 あの2人の関係が良くなってから,飛行場全体の雰囲気も変わったように思えた。 そんなことを思いながらも,だが,今は・・・・・, 「ガスト!いるか?」 ガスト=ケイプを探すのが先である。 「ガストぉ!!」 B格納庫中にベインの声が響いた。 中で仕事をしていた連中が一斉にベインの方に頭を向けた。 そして,近くにいた物同士,顔を見合わせると, 「さあ?」 といった仕草をした。 ベインは,B倉庫の中にいた者の中で,一番の年長者であるデュランに声を掛けた。 「デュラン,ガストを見なかったか?」 「さあね,見ませんでしたね」 聞いた相手が悪かった。 デュランは決して悪い男ではない。 マック=ベインを尊敬し,仕事もできる。 だが,同じエンジニアであるガストのことを快く思っていなかった。 ベインがガストに肩入れすることも・・・・。 “しまったなぁ・・・・” と思っていると,パイロットのヒューイ=ファードックが助け船を出してくれた。 「ガストなら,1時間ぐらい前に“ベッド”に潜り込むところ見たんですが,さっき,俺達が昼飯から帰ってきたときには,もういませんでしたよ」 ベインはデュランの方を横目でちらりと見ると,小声で言った。 「何かやらかしたのか?」 ヒューイはデュランの方に背中を向けて,ささやいた。 「いつものことですよ。俺達が昼飯食ってる間に,ガストの奴,デュランがやりかけてたエンジンの整備,全部やっちまったみたいなんですよ。しかも,デュランの奴が今まで気がつかなかったところを修理した痕まであったもんだから・・・・」 (全く,どこをほっつき歩いているのか?) ベインが事務所に戻ると,ガストがソファに腰掛け,御丁寧に自分でコーヒーを沸かして飲んでいるところだった。 相変わらずの素足,上半身裸で・・・・・・。 「ガ・・・・ガスト? 何でお前がここに?」 ガストはカップに残ったコーヒーを一気に飲むと, 「マックス・・・・高い豆使ってりゃ,美味いコーヒーが飲めるってわけでもないね,こりゃ」 と,全く関係のない返事をした。 “マックス”・・・・ベインはこう呼ばれることを嫌っていたが,ガストだけは何を言っても無駄だと思い,呼ばせていた。 「ふん,前にジェームスも同じことを言っていたよ。・・・・それはともかく,」 「俺に用があるんでしょ?」 「えっ?ああ,そうだ」 “誰に聞いた訳でもなかろうに。何故ガストはここにいるんだ? こいつは人の心が読めるのか?” テーブルに置かれた“ベインの煎れた不味いコーヒー”をはさみながら,2人は話し始めた。 「ガスト,お前には遠回しに言っても意味がないだろうから単刀直入に言うぞ。・・・・もっと上を目指してみないか?エンジニアとして」 「もっと上?」 「つまりだ,私の跡を継いで,エンジンや機体の設計をしてみないか? 今のようにただ整備をするだけでなく!」 「無理ですね!」 あまりにもあっさりとした答え。 「何故だ? もっと他にやりたいことがあるのか?」 「いんや。違いますよ。マックスは俺のことを分かっちゃいねぇんだよ。いいかい? 初めて会ったときから俺は何も変わっちゃいねぇのさ。まぁ,多少機械の知識や技能は身に付けたけどな」 「そうだろう,だから・・・・・」 「つまりだ,俺にできることは物を壊すことと修理することだけだ。俺は物を創造することはできない。他人が作った物にケチつけることしかできのさ。分かるだろ?」 「ああ・・・・」 「トミィのチェンバースにしろ,マックスの作ったエンジンにしろ,改善点を指摘することはできる。だが,そのものを作ることは,俺にはできねぇのさ」 「確かに,そうかもしれん・・・・」 「まぁ,でもよ,俺もいつまでも今のままじゃあないだろうから,そん時はたのむよ。マックス!」 確かに彼の言うとおりである。 彼は彼自身のことを誰よりも理解しているのだ。 だからこそ惜しい。 ベインは次のカードを切った。 「では,パイロットはどうだ?」 「・・・・へっ?」 「へっ?・・・・って,パイロットをやってみる気はないのかと聞いている」 「ええっ? いいんスか? 俺が飛行機飛ばしても!」 あまりにも意外な反応にベインは驚きを通り越して,呆れてしまった。 飛行機を飛ばしたいという願望を持っていながら,何故今までそれを全く表に出そうとしなかったのか,この男は? 「やってみないか?」 「本当にいいんスか? いやぁ〜,俺,ずっと昔っから一度でいいから空を飛んでみたいと思っていたんスよ」 長い前髪で,普段全く表情の読めないガストが,まるで子供のようにはしゃぐ姿をベインは初めて見た。 「そう思っていたなら,何故今まで黙っていた? 一言私に言ってくれれば・・・・」 「いやぁ,俺みたいな奴が飛行機飛ばしてみたいなんて言ったら,マックスは絶対許すわけねぇなあ〜,と思っていたからさぁ」 ★・・・・・・“ガストは他人の心を読めるのかも”という考えを,ベインは撤回した・・・・・・★
「やっぱりこいつは,何を考えているのか分からん・・・・・・」普段,ベインは『私事』で飛行機を飛ばすことはしない。 それは新しく設計したエンジンの性能を見るためだったり,機体とエンジンのバランス調整をするためだったりする。 ファンボローの航空ショーやレースに出ることも最近は少なくなり,郵便屋まがいの仕事も最近は全て若い者達に任せている。 空を飛ぶことへの情熱が薄れたわけではない。 ただ,自分の遺伝子を受け継ごうとする若者達の行く末を見てみたかった。 ・・・・しかし,今日は別だった。 空を飛ぶことを楽しみたかった。 そしてそれを,彼にも知って欲しかった。 まだ朝靄の残る,誰もいない飛行場の滑走路を歩き,彼専用の格納庫へ行くと,入り口で既にガストが待っていた。 “ふん,今日は服を着ているんだな” 珍しくもガストは上下きちんと作業着を着込み,靴を履いていた。 いつもの安煙草をくわえ,平静を保っているようだったが,胸の前で組んだ腕の右人差し指が,ご褒美を待てない子供のように小刻みに動いているのをベインは見逃さなかった。 「待たせたかな?」 「いんや,勝手に2時間前から待っていたのは俺ですからね」 「そうか」 そう言って扉を開く。 中にはガストにしか整備させたことのない,ベイン専用の機体があった。 (もっとも,最近ではジェームスにも整備の手伝いをさせるようになったが・・・・) 主にレースで使う2人乗りで高速仕様の“ディエゴ”,アクロバットなどに使う安定性の高い“ジャコー”。 少々旧式化しつつあったが,どちらもよく手入れされている機体だった。 しかし,今日はどちらも使うつもりはなかった。 ベインは倉庫の一番奥にある機体に足を向けた。 彼が機体,エンジン等全ての設計をして作り上げられた最初の機体。 今の機体に比べたら,洗練されていない,不格好な機体だった。 しかし,ベインはこの機体に愛着があった。 「やっぱ,それですか?“シルフィード”」 「ああ,こいつは私が最初に作った機体だ。若い頃はよく妻を乗せて飛んだものだよ」 「でしょうね。こいつにはディエゴやジャコーにはないものがある」 「・・・・?」 「自分の機体だろうに。そんなことも分からないんスか? 「歳を重ねてしまうとな・・・・」 「いい機体ですよ,ディエゴやトミィのチェンバースにだってまだまだ負けちゃいねぇだろうね。機能的だし。でもねぇ・・・・」 「でも?」 「美しくないっ!!」 この無骨な男から,こんな言葉が出てくるとはベインは思ってもみなかった。 ディエゴもジャコーも限定された機能を突き詰めた機体。 それだけにシンプルで合理的なデザインだった。 「それに比べていいっスよねぇ,シルフィード。やっぱ空飛ぶ乗り物はこう優雅じゃないとね!」 誰よりも速く。 誰よりも高く。 誰よりも遠くへ。 飛行機乗り達が皆それを求める時代に,“優雅さ”ときた。 ベインは声をあげて笑った。 ガストは何故ベインが笑ったのかは分からなかったが,どうせ自分の物言いがおかしかったのだろうと思った。 別に笑われることには慣れている。 腹を立てるようなことではない。 それよりも,ベインが大口を開けて笑う姿の方が珍しかった。 「ガスト,やっぱりお前は面白い奴だよっ!!」 まだ朝靄の残る滑走路を,爆音にも似た音をあげながら“シルフィード”がゆっくりと進んでいった。 同じエンジンでも,外で聞くのと乗って聞くのではこうも違うものなのかとガストは思った。 しかし,彼の耳や鼻は,“シルフィード”が快調なことを彼の意識に伝えていた。 滑走路の端まで来ると,エンジンの回転数が一気に上がるのを体全体で感じることができた。 「さあ,行くぞっ!!」 後部座席で操縦桿を握るベインが,そう怒鳴るのが聞こえた。 クン,と内蔵が圧迫されるのを感じると,ゆっくりした歩みが一気に全力疾走に変わった。 “速い!” 目の前に滑走路の終わりが見えてきたが不安はなかった。 激しく揺れながらも,この疾走感はむしろ快感であった。 胃が一瞬押し下げられる感覚。 次の瞬間にはその反動で押し上げられる。 ガストは一瞬吐き気を覚えたが,今まで足の裏に感じていた体の重さが無くなる感覚に嘔吐するのを忘れていた。 “翔んだ!!” ![]() 見る見る小さくなっていく地表を見ながら,ガストの心は無垢な子供のようにはしゃいでいた。 そして目の前には,朝日が昇り青さを取り戻した広大な空があった。 「きれいだ・・・・・」 ガストは一人つぶやいた。 さっきかからベインが後ろで何か叫んでいるようだったが,ガストの耳には入っていなかった。 “こんなにも美しい空があることを知らずに,殆どの人は逝ってしまうのか・・・・” ガストは直接自分の目と耳と肌で感じたいと思い,飛行帽とゴーグルを外した。 激しい風に目を開き続けるのがきつかったが,空の青さがますます目に染みいるようだった。 「ガスト!! どっちへ行きたいっ!!」 ベインのその声で我に戻った。 遙か後方には白く沈んだ倫敦。 遠い左方向には海が,そして,右と前方には山が見えていた。 “あの山の向こうには,何があるんだろう?” 子供の頃,遠い空や山を見上げながら思ったことを思い出した。 「マックス,あの山の向こうを見たいんだっ!!」 振り向いて後部座席のベインにそう叫んだ。 ベインは右手の親指を立てて返事をすると,エンジンの回転をあげて,山へと向かった。 既に飛び立ってから1時間あまり。 陽の光を受けて朝霧の晴れた山を越えると,それは見えてきた。 そこには,どこまでも広がる山と森,緑の草原,そこを貫いて走る銀色の川,そして,そこに生きる人々の営みの場所が所々に見えた。 それは,見慣れた風景であり,そして初めてみる風景でもあった。 「これが,俺の住んでいる場所・・・・・・」 眼下に,緑を食む牛の群と,その向こうに井戸で水を汲む子供の姿が見えた。 井戸のそばの小屋の煙突からは,白い煙が上がっていた。 おそらくは母親が朝食の準備をしているのだろう。 それらは全て,何よりも美しかった,すばらしい物だった。 緑はどこまでも広がっていた。 ガストはシートに体を預け,ゆっくりと目を閉じた。 “もう,必要はない・・・・” あの緑の丘で,全身で風を感じてみたいと思った。 「そうか・・・・俺が見たかったのは,これだったんだ・・・・・・」 そうつぶやくと,今見た風景を忘れぬように,心に刻み込み続けておきたいと願った。 ![]() 陽は既に沈み,空は黒く染まろうとしていた。 振り返れば,ラウンジからトミィ達が出てくる姿が見えた。 ガストのすぐ後ろを,油で左頬を汚したヒューイが通り過ぎる。 「じゃあ,また明日な!“教授先生”」 「馬〜鹿。俺は教授じゃねぇよ。ただの講師だ。それよりヒューイ,ちゃんと風呂は入れよ。顔に油が付いたまんまだぞ!」 「俺はお前とは違うんだよ。そんなにしょっちゅう風呂になんか入れるかよ!」 そんなことを言いながら,ヒューイの背中が小さくなっていった。 ベインの事務所の灯も既に落ちいてた。 また明日も変わらない同じ営みが続く。 それは特段苦ではない。 ガストはそのままそこに寝転がると,大の字になって空を見上げた。 紺に染まった宙には,既に星の瞬きが一つ,二つと見え始めていた。 「どこまでも高く,誰よりも速く・・・・・・か」 奴らはどこまで翔くことができるのだろう? 空を飛んだあの日のことを決して忘れはしない。 どこまでも広がる青い空を。 しかし,ガストの脳裏には,空の青以上に,大地の緑が忘れられなかった。 だから,二度と空を翔ぶことはしないだろう。 『結局人は,この大地から離れて生きていくことはできない。土と緑の上に足をおろしてしか生きていくことはできない』 あの日実感したことを,あの日から何度も繰り返して思ってきたことを,自分に言い聞かせるように呟いた。 そして,眠気を覚えると, “もう今日は,このままここで寝ちまおうかな?” と考えた。 そして,次第にぼやけていく意識の中で,あの日見た小屋のそばで,井戸の水を汲む子供の姿を思い浮かべながら, 「俺とあいつとガキで,あんな場所で暮らすのもいいかな?」 と,最近下腹が目立つようになってきた彼女のことを想った。 「でも,・・・・その前に,ちゃんと籍を入れきゃなぁ・・・・・・」 そこで,その日のガストの意識は途切れた・・・・・・。 |