Side.2

「私にはあなたの気持ちが分からないわ!」
「そう,私はラットを愛しているわ。ラットが私に好意を寄せているのも分かっているわ。けどね,ラットはそれ以上にベインさんを愛しているのよ!」
ラットが,ジム=フィッシャーのヘルミーネのテスト飛行をする日の朝,マリィ=ハドソンとエミリー=フォーカス,飛行機乗りを愛する2人の女が言い争っていた。
一口も付けられず,まだ湯気がのぼる2つのティーカップが置かれたテーブルを挟んで,座ることも忘れて。
窓の外には,フィッシャーの好む黄色とオレンジに塗り分けられた真新しい機体と,機体にとりついて確認作業をしている男達の姿が見えた。
「愛しているということと,自分の所に繋ぎ止めておくこととは違うのよ,マリィさん」
「いいの?それで・・・・・・」
マリィは,全てを分かり切ったように話すこの女がますます嫌いになった。
男が女を,女が男を,誰かを愛するという自然な気持ちを,営みを,どうして押さえる必要があるのだろうか?
自分の気持ちを素直に相手に伝えようとすることの,どこがいけないのだろう?
同じ女なのに,どうしてこうも違うのだろう?
夫は・・・・何故ジェームスは私の気持ちを理解してくれないのだろう?
・・・・・・マリィは,自分の気持ちが高ぶり,押さえきれなくなってきているのを感じていた。

そのとき,2人のいる部屋へ,ラット=ビアンカがノックもせずに入ってきた。
ラットはマリィに軽く会釈すると,エミリーのそばへ寄って話し始めた。
マリィはそのときになって,ラットに対して会釈を返さなかったこと,そして,その時,自分はどんな顔を見せていたのだろうかと思い,一人恥じた。
だが,その場を動くことはできなかった。
「それじゃあ,行って来るよ」
「ええ,頑張ってね」
そんな言葉を交わし,抱き合う2人を見て,マリィは少し2人が羨ましくなった。
抱き合うラットの肩越しに見えたエミリーの笑顔はとても美しかった。
人を愛することのできる至福と,自信に満ちた顔だった。
”あぁ,エミリーさんは幸せなんだ”
”私は,ジムのためにあんな笑顔を見せられるのだろうか?”
マリィは,そう思いながらラット達を見つめていた。

その一瞬,ラットの身体が光ったように,透明に透けていくように見えた。



街角にうずくまる子供。
マック=ベインに抱かれて笑う少年。
緑の野原,若い女性の膝枕で眠る若者。

マリィは,そんな幻を見たような気がした。
”何?今のは・・・・・・”
そう思ったときには,イメージは既に消え,思い出すこともできなかった。
そこに見えたものは,閉じられるドア。
そして,ドアを見つめる笑顔の中に,涙を浮かべたエミリーの瞳。
「エミリーさん,今・・・・」
「あの人,行ってしまうわ」
エミリーは,深く息を吸い,目を閉じると呟くように言った。
「逝ってしまう・・・・・・」
「行ってしまうって,何を言ってるの?」
「もう,帰ってこないわ。分かるの,ラットは・・・・」
「分かるって・・・・だったら何故止めないの,どうして行かせるの!?」
「言ったでしょう。私はあの人が好きなの。ラットはそれを望んでいるのよ」
「帰ってこない?死んでしまうってこと?それが何になるのっ!?」
「あなたには分からない!」
エミリーの瞳には,怒りと,そして深い悲しみに満ちているようだった。
だが,マリィは言い放った。
「分からないわ。私は女よ。好きな人を自分の所に引き留めたいと考えて何故いけないの? 好きな人と結ばれて,好きな人一緒に暮らして,好きな人の子供を産みたいと思うことのどこが間違っているの!?」
「あなたは,女でありすぎるのね? それが女の幸せだと私も思うわ。一度でいいから,私もあの人に抱いて欲しかった・・・・でもね,そうじゃない。それだけじゃないのよ,男と女って・・・・・・」
「それでいいの?そんな考え方,生き方って,寂しくないの?」
エミリーは,ソファにゆっくり腰を下ろすと,既に冷たくなっているティーカップを見つめ,囁くように言った。
「寂しいわよ。ラットはもう帰ってこないのよ」
うつむくエミリーの肩が,小刻みにふるえているのをマリィは初めて見た。
エミリーはカップに手を伸ばしたが,うつむいたまま,それを口へ持っていくことはなかった。
マリィは,言葉を失った。
「エミリーさん・・・・・・」
エミリーが泣いているのが分かった。
「でも・・・・,それが私なの・・・・・・」


ヘルミーネのコクピットにラットが座ると,マック=ベインがタラップを上ってきた。
ラットはゴーグルを上げて,深い緑色の瞳をベインに向けた。
「ラット,無茶はするなよ!」
「ええ,まかせてください,マック」
ラットが再びゴーグルを付けると,ふと,ベインの優しい匂いがラットの鼻をくすぐった。
ベインは,ラットから視線をはずすと,呟くように言った。
「ラット・・・・ヘレンを憎んではいないのか?」
「憎む?何を言ってるんだい,マック。突然おかしなことを・・・・。僕を本当の子供のように育ててくれたマックのように,僕はヘレンも愛しているよ」
「・・・・・・そうか」
ベインは,ラットに視線を戻すと,微笑んだ。
「まるで,別れ際の挨拶みたいで,嫌だね?」
ラットは今はもう無い耳のあたりをかきながら笑った。
「そうだな・・・・」
ラットとベインは空を見上げた。
空の青は,透き通るようだった。
エンジンが始動し,マックがタラップを降りると,ラットはもう一度空を見上げて思った。
”この青にとけていけたら・・・・・・”