Rat−Bianca;Veinn (ラット ビアンカ)
 #3.

あなたの苦しさを 私だけに
伝えていって欲しい・・・・・・

Side.1

D・D・ケネスが逝った。
夕べ,一緒に飯を食い,先程,共にお茶を飲み,整備を終えたばかりの飛行機で,ほんの30分前に飛び立った奴が,今はもう,この世にはいない。
数分前,着陸する寸前に笑顔で親指を立てていた奴が。
一瞬の,ちょっとしたミス。
バランスを崩した機体は,子供が投げ捨てた玩具のように砕けていった。
人はこんなにも簡単に逝ってしまうものなのか?
夢も希望も果たせぬままに・・・・・・。
”奴にだって,もっとやりたいことが沢山あっただろうに・・・・!!”
トミィは友人を失った哀しみと,そして,人の命の儚さに怒りを覚えた。


それから一週間も過ぎた日の朝,トミィとジェームスが飛行場に入ると,格納庫の中に,ラットの姿が見えた。
マック=ベインの新型エンジンを積んだ機体の整備をしているようだった。
(そういや,ラットがぶっ倒れたり,ケネスのことがあって,この機のテストも延期つづきだったからなあ)
ジェームスはそんなことを思った。
「よお,ラット。もういいのか?」
まるで何事もなかったかのように,トミィが話しかけた。
一体何時から仕事をしていたのだろうか?
ラットの作業着と両手は既に油で黒く染まっていた。
「あ,ああ・・・・。もう大丈夫だよ。すまなかった,心配かけてしまって・・・・・・。その・・・・みんなの好意を無駄にしてしまって・・・・ケネスも・・・・」
トミィの表情が一瞬,曇ったことにジェームスは気付いた。
気まずい雰囲気。
「なあ,それベインさんの設計した新しいエンジン積んだ奴だろ?いつ飛ばすんだい?」
その雰囲気をなんとかしようと,ジェームスが訪ねた。
「そうだね,来週にはフィッシャーさんが来るから,その前までにはとマックは考えているらしいけど・・・・」
「フィッシャー?もしかしてそれって,ジム=フィッシャーか!?こいつは奴の”ヘルミーネ”か?」
トミィが毒気づいた。
「そうだけど,それが何か・・・・?」
「ケッ,あいつ,仏蘭西の飛行機は世界一とか言ってたくせに,結局はベインさんのエンジンに頼らなきゃ勝てない訳だ?」
「・・・・?」
訳が分からず呆然としているラットに,ジェームスが説明した。
「トミィとフィッシャーさんはね,昔からのライバルなんだよ」
「ライバルだぁ?何言ってやがる,ジム。あいつなんか,俺の足下にもおよばねえよっ!」
「でも,5勝4敗だよな?」
「俺の方が勝ってるじゃねえかよ?」
「同じようなモンだろ?」
「ハッ,見てろよ。俺のチェンバースだって,チューンアップしてるんだ。ベインさんのエンジンだろうが,負けはしねえよ」
「面白いじゃないか?ラットの整備したヘルミーネと,ガストの整備したチェンバースの勝負になる訳か?こりゃあ,負けるわけにはいかないな,なぁ,ラット?」
「勝負だなんて・・・・そんな,僕は・・・・・・」
”おいおい,冗談の通じない奴だな,こいつ。何なんだ?”
本気で表情を暗くしているラットを見て,ジェームスは思った。
”これじゃあ立ち話もできないじゃないか”

「あ,そういえばさ,ラットはどうしてパイロットになったんだい?」
「僕が?」
工具箱に丁寧にレンチをしまい込み,タオルで手に付いた油を拭き取りながら,ラットは答えた。
目を伏せるようにしながら。
「マックに聞いたんだろう?・・・・僕は,こういう形でしかマックの恩に応えることができない。・・・・それに,僕は,雑種だからね」
ラットはジェームス達を見ることができなかった。
その姿は,大好きな母親に叱責されて,行き場を失った幼子のようだった。
「お前ってさ,どうしてそうなんだよ?ベインさんはなぁ・・・・」
トミィだった。
彼は怒っていた。
「分かっているよ。でもね,僕がマックの好意に甘えてしまったために,マックやヘレンを傷つけてしまったんだ」
「お前よ,そんな風に二言目には”マックが,マックが”って,ベインさんのためだけに生きようなんてさ,そんなんでいいのかよ?お前自身の意志は何処にあるんだよ!?」
激しいトミィの言葉に,ラットは少しだけ顔を上げ,上目遣いでトミィの顔を見た。
「僕の,意志・・・・?」
「ラット,お前の人生だろ?お前の夢や幸福はどうなんだってことだよ!」
たまらず,ジェームスも口を挟んだ。
「僕は・・・・僕は,少しでもマックの役に立てればそれでいいんだ。それに・・・・」
「お前の女はどうなんだよ?」
「それに,僕が死んだところで,誰も悲しむような人もいないし・・・・・・」
「まだ言うか,貴様!」
突然,トミィがラットに殴りかかった。
トミィの拳をまともに食らったラットは,先程まで整備をしていたフィシャーの”ヘルミーネ”に身体をぶつけて倒れた。
しかし,立ち上がる気も無く,自分を殴りつけたトミィを睨み返すこともせず,のろのろと体を起こすと,うつむいたまま四つ這いのような姿勢になった。
トミィは大股でラットに歩み寄ると,ラットの襟首を掴み,自分の方に引き寄せ,胸ぐらを掴んでもう一発,横面を殴った。
そんなトミィをジェームスは止めようとはしなかった。
怒り,ラットを殴りつけるトミィが,その表情とは裏腹に,悲しんでいるように見えたからだった。
まるで抵抗をしようとしないラットを引き寄せ,鼻面を合わせるようにしてトミィは言った。
一言一言,まるで自分に言い聞かせているかのように。

「死んで悲しむ奴がいないだと!? 死ぬことが平気だなんて言い方しやがってっ!」
「この世の中に,死んでもいい奴がいると本気で思っているのかっ?」
「いいか,人はなぁ,仕事の後に飲む酒を楽しみにしなければならない!」
「美味いモンを食ったら,美味いと思わなきゃならない!」
「友達との馬鹿話を楽しいと思わなければいけない!」
「週末の夜に好きな女と会うことを楽しみにしなければならない!」
「そして・・・・,家族や友達が死んだら,心の底から悲しいと思わなきゃいけないんだっ!!」

ラットを突き放すと,ラットの両目に涙が浮き上がっているのがトミィには見えた。
そして,自分の目にも。
「馬鹿がっ!」
最後にもう一発,ラットの頬に平手打ちを食わせた。

人を殴って,こんなにも後味の悪い思いをしたのは初めてだった・・・・・・。