Side.3

トミィの右手に握られた銀製の花瓶からは,血が滴り落ちていた。
トミィの視線の先には,この館の主の無様な姿があった。
うめき声を上げ,乱れたガウンの下には,何もつけていない醜く太った身体が見え隠れしている。
トミィは追い打ちをかけるように主の後頭部めがけて右手を振り上げた。
ゴッ!
鈍い音がして,主が悲鳴を上げ,のたうち回る。
「お前など・・・・,お前など私の子ではないぃっ!」
自らの血で真っ赤に染まった顔を上げ,必死になって叫んでいた。
その顔は恐怖に引きつっていた。
その顔に向けて蹴りを入れる。
二発,三発・・・・・・。
トミィの”父親”は必死に抵抗しようと,トミィの足をつかんだ。
が,その腕を反対側の足で蹴りつける。
「があぁぁっ!」
声にならない声を上げ,トミィは”父親”を踏みつけた。

”こいつが親父だというのか?
こいつが母さんに俺達を産ませたというのか?”
それを知ったから,姉さんは自ら命を絶った。
自分の父親に汚され,そして汚され続けなければならないこと。
それを知ったから,母さんは狂い,自ら命を絶った。
自分の娘が父親に汚された衝撃,娘が死を選んだという悲しみ。
その上,その病的な性癖を,実子である自分にまで向けてくる。
今まで使用人の子として扱っておきながら,今になって自分が父親だと?
主ならば何をしてもいいのか!?
父親ならば自分の子に何をしてもいいのか!?
狂っている!
狂っている!
狂っている!
狂っている!
こいつのために姉さん達は死んだんだ!
貴様の腕の中で,姉さんがどんな思いをしていたのか。
どれほどの悲しみと絶望につつまれていたのか。
こんな奴,いらない!
いらない!
いらない!
いらない!
死・ん・で・し・ま・え・!
・・・・・・だから,トミィはベッドサイドテーブルに置いてあった花瓶をつかみ,趣味の悪い色と柄のガウン一枚だけを羽織り,嫌らしい,醜い笑みを漏らす”男”の側面に,躊躇無く叩き付けた。

主はすでに抵抗する力を失っていた。
時折うめき声を上げながら,部屋の隅で動かなくなっていた。
その姿を眺めながらも,トミィは自分のしたこと,自分のいる場所,光景がまるでしっくりこなかった。
・・・・・・虚無。
ふと気がつくと,そばに”叔父”が・・・・館の主の弟が立っていた。
そのときになって,トミィは自分の右手に握られた花瓶が血糊で染まっていること,自分自身も返り血で汚れていることに気づいた。
トミィの手から真っ赤な花瓶が転げ落ちた。
”もう,全てが終わった・・・・・・。もう,どうなってもいい”
諦めや,自暴自棄ではなく,トミィは素直にそう思った。
やがて,何事かと執事や何人かの使用人達が主の部屋へとやってきた。
一同皆,部屋の隅で血まみれになり呻いている主と,同じように返り血で汚れた少年を見,驚いた。
が,しかし・・・・・・。
「皆,見ての通り,兄はここで転倒して大怪我をされた。すぐに医者を呼べ。そして奥の間で兄にはゆっくりと”療養”していただく。当家の主たる権限は,これより私が引き継ぐこととなる。皆にそう伝えよ!」
新たな主のその言葉に,執事達は何事もなかったかのように自分がすべき仕事に取りかかり始めた。
「兄にはここらで隠居してもらう。それがこの家のためでもあるのだ。兄の病は家を滅ぼしかねないのでな!」
トミィの”叔父”は,トミィにそういうと,まだ呻きのたうち回る兄に見向きもせず,煙草を吸い始めた。
”これが大人の都合か?”
我に戻ったトミィの心に,また嫌悪感が生まれた。

先代の主は”事故”が元で廃人同然になり,二度と陽の下へ出ることはなかった。
トミィは,新しい主の配慮から,主の知人の家に預けられた。
様々に工場を経営するその家で,トミィは蒸気機関や石油機関について学び,若くしてその道に精通するようになった。
そして,やがて”空を飛ぶ乗り物”に興味を示すようになっていった。
鳥のように自由に・・・・・・!


窓の外で鳴く虫の声でトミィは目を覚ました。
外はまだ暗い。
夜明けまでにはまだ時間があるようだった。
あれから約10年・・・・・・。
トミィが幼い頃,姉と過ごしたあの館は既に無い。
風の噂では,”叔父”は良主であったが,乗馬中に落馬し,あっけなく死んだ。
あの館も,それから数年後に焼け落ち,家は断絶したという。
そして,左目も失った今,トミィは絶望していた。
”ジェームス・・・・俺は,もう翔ぶことはできない”

闇はどんどん広がり,トミィを包みこもうとしていた。


街の灯りがつきはじめて
誰もが家路につきはじめる
俺は 未だに迷っている
どこへ還っていけばいいのか・・・・?

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