James-T-Hudson(ジェームス T ハドソン)
 #3.止まないの音に

風に吹かれて消えていくもの・・・・・・


既に両腕は機械油にまみれていた。使い古された油の臭い。
ジェームスはこの臭いが嫌いではなかった。
特に今日は,マック=ベインの飛行機のメンテナンスを任されていたので,この油の臭いがいっそう鼻に心地よかった。
ジェームスが手掛けている飛行機の持ち主,マック=ベインは,ジェームスの働く飛行場の経営者であり,また,一線を退きつつあるものの優秀なエンジニア,設計技師兼パイロットであった。
ジェームスを含め,彼に憧れを抱いてここへ来た者は多く,また,ファンボローで毎年行われる航空祭では彼の勇姿を求めて海外からも多くの人が集まった。
普段,ベインは滅多なことで自分の飛行機を他人に触らせることはしない。
彼の機はガスト=ケイプというエンジニアが専門で診ていた。
ジェームスを含め,ここで働く者達全てがガストのことを知っていたが,彼に関して良い噂は聞いたことがない。
端で見ている限り,時間にも仕事にもルーズで,上着も着ずにいつもだらしない格好をしてフラフラしている。
実際,ジェームスも彼が働いているところを見たことがない。
しかし,ベインがガストに自分の機をメンテするよう声を掛けているのは何度も聞いている。
(何故あんな奴にベインさんは大切な機体を任せるんだろう?)
その理由は分かろうはずもなかったが,ベインが周囲の者とは違って,ガストに信頼を寄せているだけは確かだ。
この飛行場にはジェームスよりも腕の立つエンジニアは何人もいる。
その彼らにもベインは決して自分の機を任せることはしなかった。

そのベインの飛行機を今日は任されているのである。
ジェームスは久しぶりに憂鬱な昨日を忘れて仕事に専念した。
「ガスト,どうしたんだろう?今朝はいたはずなのに」
ふと,そんなことも思ったが,すぐに忘れてエンジンの上に這い上がる。
普段のメンテナンスなら2〜3時間で終わるのだが,今日は丹念に時間を掛けていた。
機の構造,ビス一本の締め方まで,彼の機の隅々まで観るつもりだった。

ジェームスには一つの夢があった。
自分で設計した飛行機に,ベインの作ったエンジンを載せて飛ぶことである。
機の名前も決めてある。
『ヴァルコーン』・・・・・・シルフィードと対をなす風の精の名前。
ヴァルコやシルフの様に風になって空を舞いたかった。
機の大まかな設計はできていた。
しかし,こうしてベインの機を観てみると,大出力のエンジンを支えるための頑丈な作りでありながら,シンプルで無駄のない作り,デザインに改めて驚かされるジェームスであった。
長い年月と経験の差があるとはいえ,自分の技量不足を思い知らされる。
(ベインさん,凄い。とても今の俺にはできない仕事だ)
だからこそ,今日のこの仕事を完璧にこなして,ベインの信頼を得て,もっとベインから学びたいと思った。
彼の技術の全て知りたい。彼のすぐ元で働くことができたら・・・・・・。
こんな飛行機を作って,空を飛ぶことができたら。
コクピットに座り,グリップの色が褪せた操縦桿を握り,ジェームスは思いを馳せた。

「終わったのか,ジム?」
低く響くマック=ベインの声にジェームスは我に返った。
気が付くとベインがコクピットの下からジェームスを見上げていた。
深く濃いグリーンの瞳にジェームスは吸い込まれそうになる。
「あ,はい。終わりました。ベインさん」
ジェームスはそう答えながらあわててコクピットから下りようとした。
「いや,そのままでいい。メンテが終わったのなら一度エンジンを掛けて,様子を見たいのでな」

そう言いながらベインはもう機種側に回り,プロペラの一つに手を掛けていた。
(え,何?)
思いもしなかったベインの行動に驚きながらも,ジェームスは右脇のレバーを引き,エンジンに燃料を送るためにチョークを三度引いた。
ベインが両腕を掛けたプロペラを勢いをつけて回す。
エンジンが始動する鈍い音。しかしそれは一瞬。
エンジンは軽く,高い音を上げて高速回転を始めた。
音は次第に高くなっていく。
(なんて音だ。俺が手掛けているどの機体よりも,高く,心地よい音だ。それに,こんなにも振動が少ないなんて)
どこまでも高く,どこまでも遠くへ行けそうな気がする。風に乗って・・・・・・。
ジェームスは目を閉じて深く息を吸い込んだ。

「ジム,これを飛ばしたみるかね?」
「え・・・・・・?」
思ってもみなかったベインの言葉。
ジェームスは一瞬言葉の意味を理解できなかったが,すぐに気を取り戻して答えた。
「いいんですか?ベインさん!!」
「ああ,初めてにしてはきちんと整備してくれたようだな?」
信じられなかった。自分の思っていた夢が,こんなにも早く叶うかもしれないとは。
長い間,耳の奥にいつも聞こえていた冷たく,乾いた風の音。
あの日から,決して止むことの無かったあの風の音。
あの風の音が一瞬,止んだように思った。・・・・・・が,
その思いはすぐにかき消された。
「止めときな,死ぬぞ・・・・・・」
ガスト=ケイプだ。
いつの間にか,軽いエンジンの音が響く格納庫の中に,ガストの姿があった。
相変わらずの格好。
藁屑のついた作業ズボンに,上半身は布一つ身につけていない。
片方の手をズボンのポケットに突っ込み,だらしなく頭をかきながらこちらへ近づいてくる。
(ガスト・・・・・ケイプ!)
何でこんな奴が?
ジェームスはエンジンを切って,コクピットから飛び降りた。
「ガスト,またあそこで寝てたのか?」
ベインはいつものことだ,とでも言うように倉庫の隅に置いてある滑走路の衝撃吸収用の藁束の山の方を見た。
「ああ・・・・・・」
おざなりな返事に,ジェームスは,何のためにこいつはここにいるのだろう?と思った。
「どうしたね,ガスト?何かまずいことでもあるのかね?」
ベインは顔色一つ変えずに訊ねた。
「ああ・・・・・・,このまま飛ばすと,墜ちるぞ」
「どういうことだ?」
今度はジェームスが訊ねた。
(こいつ,俺がベインさんの飛行機を診たのが気に入らないのか?)
ボサボサの長い髪で表情はよく分からなかったが,ガストは声色を変えずに平然とした顔で答えた。
「プラグの一つがきちんとはまっていねぇ。右側の手前のやつだ。そのまま飛ばすと,そのうち負荷が掛かってエンジンがおしゃかだぜ」
「何?プラグは全部俺が点検した。一本一本きちんと診たぜ。変な言いがかりは止めろよな。診てもいないくせに,何が分かるんだ?」
呆れたね・・・・・・と言うように,ガストは手のひらを返し,上を見て大きくため息をついた。
「分かっていないのは,お前だよ,ジム」
ジェームスは怒りを抑えきなれなくなってきた。
トミィも,アレンも,そしてガストも,どいつもこいつも俺の夢を,俺の大切なものをブチ壊す。
何故だっ!?
「俺が何を分からないと言うんだ? 何でお前に分かるんだっ?」
ガストは口の端で笑うと,人差し指の先で鼻の頭をかきながら答えた。
「・・・・・・匂いだよ」
「匂い?」
「そう,匂いだ。そして音だ!」
「馬鹿な!?」
そう言いながらもジェームスはエンジン部に上がり,カバーを開いた。
右側の手前のプラグカバーを外す。
誰が見ても明らかだった。
プラグがまっすぐに挿入されていなかったようで,全体が黒く煤けていた。
「ガスト・・・・・・!」
もうその時には,ガストは日が傾き掛けた外へ向かって歩き始めていた。
(何で診てない奴に分かることが,診ていた俺に分からなかったんだ?)
先程までガストに向けられていた怒りが,行き場を失って急激に内側へ向かって走り始めた。
「ジム,今日はいい勉強になっただろう。どうだ?お前にある気があるなら,私の所で働かないか?」
そんなベインの励ましの言葉も,ジェームスの耳には入らなかった。
(全部,終わった・・・・・・俺のやってきたこと)
ジェームスの耳の奥で,また,あの風が吹き始めた。
冷たく,乾いた風の音・・・・・・


・・・・・・風に吹かれて,消えていく。
遠ざかっていく雲のように・・・・・・
「俺の影も足跡も・・・・・・」


Back to Storys Top   Next Story