James-T-Hudson(ジェームス T ハドソン)
 #4.のない額縁の部屋で

ただ生きるだけの刻は過ぎゆき・・・・・・


「紅茶もいいが,私はどちらかというと,コーヒーの方が好きでね」
そう言って,マック=ベインは柄の違う2つのカップを棚から出した。金持ちの家の割には,全体として部屋の作りは質素だな,とジェームスは思った。
その日の夜,ジェームスはベインに呼ばれてベインの屋敷にいた。
煌々と燃える暖炉の上には,ちょうどいいぐらいの数の装飾品と,やや大きめの絵が飾ってあった。
グリーンの旗とオレンジの旗を持って立つ2人の兵士の肖像画。
その二人は,どことなくマック=ベインに似ているとジェームスは思った。
「そういう絵を飾るのは私の趣味ではないのだが,仮にも私の先祖の絵なのでな,飾らなんわけにもいかんのでな」
コーヒーを注ぎながらベインが言った。
(・・・・ということは,ベインさんは軍属の出なのか?貴族じゃないのか?)
個人の飛行場を持ち,十数人ものエンジニアやパイロットを雇うだけの財力。
ジェームスはそれは貴族の道楽で行っているものとばかり思っていた。
ではベインは軍人なのか?そうも思えない。
大体にして軍が飛行機に興味を持つとは思えなかった。
艦のように大砲を積めるわけでもなし,大勢の兵士を乗せられるわけでもなし。
歩兵や騎兵のように俊敏に動き,敵を狙えるわけでもなし。
飛行機にできることと言えば,空を飛ぶ爽快感をパイロットに与えることぐらいだ。
だから,飛行機というものは貴族や一部の富裕階級の玩具でしかなかった。
事実,ジェームスも貴族や金持ちを乗せて飛んだり,アクロバットを見せて金を稼ぐこともある。
しかし,ジェームスは特定のスポンサーを持っていなかったので,普段はベインの飛行場に出入りしている機のメンテナンスが生活していくための糧になっていた。
自分の機も持っていない。
メンテナンスした他人の機を飛ばすことは毎日のようにあっても,自分のために飛ぶことはない。
だからこそ自分の機が欲しかった。
トミィ達のように。
トミィは何人もの貴族や金持ちをスポンサーとして持っている。
無論,飛行機も自分の物だ。
しかも,次々と新しい機を導入している。
いや,正確にはしてもらっている。
トミィを常に新しい機に乗せ,飛ばすことが彼のスポンサーである貴族や金持ち共のステータスになっている。
彼ほどの腕前ならそれも当然であろう。

「君が描いた設計図な,見せてもらったが,なかなかいいものを持っているな?」
ベインの言葉に我に返る。
昨日は思いがけないガスト=ケイプの言葉に自分を失っていたジェームスだったが,これはチャンスだった。
ずっと憧れを抱いてきたベインの元で飛行機についての知識や技能を深めるための・・・・・・。
「君にその気さえあるなら,私の所で直接働いてみないか?悪い話ではないと思うが?」
(何と深い色をした瞳なのだろう?)淡々と話すベインに見据えられながら,ジェームスはそんなことを思った。
彼には,表面的に何を言っても,心の内を見透かされるのではないか?
動揺する心を落ち着かせようと,コーヒーを啜る。
苦い。
いつも安物のコーヒーしか飲めないジェームスだったが,いくら『よいもの』だとしても,この味は好きになれそうになかった。
「どうして俺なんですか?俺よりも腕利きのエンジニアはいくらでもいるでしょうに?」
「面白いな,君は?」
「面白い?」
「何故君はここにいるんだ?ここにいても,いい目に合うことなど殆ど無いだろうに?」
何を言いたいんだ?何のために俺を呼びだしたんだ?言いたいことがあるならはっきり言えばいいだろうに,何回りくどいことを言ってるんだ?
ジェームスは苛ついてきた。
口に合わないコーヒーを一気に喉に流し込む。
その短気さが彼の欠点であった。
「ジェームス=ハドソン。ハドソン家の血筋の者ではないのか?それなのに雑種か?」
嫌な話題だ。
「ハドソン卿には昔,一人娘がいたはずだが,ずいぶん昔に亡くなったと聞いている。ハドソン家も直系は断絶だな?」
「何が言いたいんです?俺には関係のない話でしょう!?」
「そうだな・・・・・・」
ベインが自分の過去を掘り返すような人物ではないと思っていたジェームスは幻滅した。
「では本題に入ろう。端的に言うと,私が君を気に入ったということだ。確かに君の言うとおり,君より優れた者はいくらでもいる。だが,そこ止まりだ。残念ながら,彼らには今以上のものを期待できない。だからだ」
「俺がみんなより成長するとでも?そう思っているなら買いかぶっていますよ」
「そうかもしれん。だが,君には他の者にはないものを感じる」
「俺が雑種だからですか?」
「ふん・・・・・・それもあるかもしれんな。雑種の君がどう這い上がっていくのか,見てみるのも面白いかもな?」
(こいつ,俺を試しているのか?それとも,もてあそんで楽しんでいるのか?)
ベインの元で働くチャンスと思っていた先程の気持ちは既に無くなっていた。
彼に激しい嫌悪感を抱く。
「だが・・・・・・」
ジェームスの思考はベインの言葉に遮られた。
「そういうことではないんだな。本心で君には彼らにはないものを感じる。だから呼んだ」
「何です?それは・・・・・・」
ベインの目が細く,鋭くなった。
「うまく言葉では言えんが,強いて言うならば・・・・・・匂いだ」
”匂い”・・・・ガストと同じことを言う。
一体何を言っているんだ?
「ふん,今はまだ分からなくていい。問題は君にやる気があるかだ,ジム。その気があるなら私はいつでも待っている。さあ,話はここまでだ。今夜は帰りたまえ。そしてよく考えてみるといい」
カップのコーヒーは,まだ湯気を立てていた。


「ン・・・・・・?」
傍らに寝ていたマーチが起き上がった音で,ジェームスは目を覚ました。
窓を見るとまだ薄暗い。夜が明けるにはまだ時間があるようだった。
壁に掛けてある安物の時計は,止まることはなかったが正確な時刻を刻んだことがないものだったが,それでもまだ4時台を指していた。
ベッドの上に上半身を起こすと,何も身につけていない自分を思い出し,数時間前までの二人のいとなみで乱れた毛布とシーツを引きこんだ。

マーチはジェームス同様に,身に何もつけないまま,窓際に立って外を見ていた。
「どうしたんだ?」
マーチのまっすぐに美しく伸びた背筋と,その下にあるととのった腰を見て,ジェームスは眠気を忘れて,もう少しあの美しい腰に自分を埋めていたいと思った。
「マーチ?」
「・・・・・・え?」
「どうしたんだよ。こんな時間に?」
マーチは全裸のまま振り向き,しばらくジェームスを見つめていたが,やがて,そばに置いた服を掴んで言った。
「私・・・・・・帰るわね」
「帰るって,どういうことだ?俺が何かしたのか?」
「いいえ,そういうことじゃないの。ジムと一緒の時間って,気持ちいいよ・・・・・・ずっと抱いてて欲しいわ」
恥ずかし気もなくそう言えるのは,マーチが娼婦だからではない。
彼女は何人もの相手を持つ,高級娼婦だったが,ジェームスの蓄えで抱くことができるような女性ではなかった。
だから,マーチとジェームスの関係は,娼婦と男という関係ではなかった。
例え,会えば体を重ね合うだけの関係だったとしてもである。
ジェームスからマーチの所へ行くことはなかった。
常にマーチがジェームスの部屋へ通っていた。
マーチが”仕事”をする部屋とは比べるべくもない,この部屋で,二人は互いを求めあった。
机も椅子もない,粗末なベッドがあるだけのこの部屋で。
装飾品らしいものといえば,壁に絵のない額縁があるだけの部屋で。
それは,前の住人が置いていったのであろう額縁だった。
以前は何か絵が入っていたのだったが,煤け,塗料の剥げかけた絵が気に入らず,ジェームスはこの額縁だけを残した。
いつか,この額縁に合う絵を入れることができる日を想いながら。
「帰ることにしたのよ。私の故郷に・・・・・・」
一枚一枚服を身につけながら,マーチは続けた。

「私も,夢を持って此処へ出てきたけどね,夢は夢なのよ。決して叶うことのない,現実ではないものなのよね,夢は・・・・・・」
「だから,それが分かったから帰るのよ。まだ夢じゃない,希望がなくならないうちに」
「何もない,小さな田舎町だけど,そこでもう一度,やり直してみるわ」
ジェームスはベッドの上に片膝を立てたままの姿勢で,眉一つ動かすこともできずにいた。
すっかり衣服に身を包んだマーチは,まだ全裸のままのジェームスに歩み寄ると,手を取って,その手を自分の頬に当てて言った。
「ジム・・・・ジェームス。もっと自信を持ちなよ。あなたはもっといい男になれる素質を持ってるんだから。・・・・・・あなたの匂い,私は好きだったよ」
マーチはジェームスの手を取ったまま顔を近づけると,彼の額に軽くキスをした。
ジェームスはその時に,初めてマーチの本当の”匂い”を感じた。
マーチに残る他の男のものでもない,マーチ自身の体毛のものでもない,心で感じる匂いだった。
それはとても甘く,あたたかいものだった。
ジェームスがそれをはっきりと自覚したときには,部屋の扉は閉じられた後だった。
「マー・・・・・・チ」
後を追うことはできなかった。
今すぐ走って後を追い,自分の所へ呼び戻したかった。
窓の所へ立っていき,せめてマーチの後ろ姿を見たかった。
だが,マーチと共に過ごしたベッドから,ジェームスは動くことができなかった。
ガストの言う匂い,ベインの言う匂い,そしてマーチが言った匂い。
それがが全て分かったような気がした。
しかし,今はそれよりも,大切なものを失った悲しみでいっぱいだった。
彼女を愛していたのだろうか?
この部屋で,体を重ね合うだけだった彼女を?
お互いの心の傷を舐め合い,刺激し合い,欲望し合うだけだった彼女を?
愛ではなかったのであろう。
だが,長い間,人を愛し,人から愛されることから遠ざかっていたジェームスにとっては,彼女の存在は代え難いものだった。
だから,ジェームスは,もうマーチの温もりの無くなった毛布に顔を沈め,身に何も付けない幼子のように涙を流した。
あの日から,ずっと忘れていた涙と嗚咽が,絵のない額縁の部屋にいつまでも続いた。


かみ合わぬ歯車に甘んじ,ただ生きるだけの刻は過ぎゆき,傷跡も涙の数も・・・・・・


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