Rat−Bianca;Veinn (ラット ビアンカ)
 #1.

何故僕は 生まれて来たんだろう?
何故夜は こんなに深いんだろう?


ススと濁った水と 腐った油の立ちこめる街角で幼い子供がドブ鼠のようになって死にかけていた。
虚ろに開かれたその眼は,目の前に立つ男を通り越して,見えるはずのない遠い青い空を見ているようだった・・・・・・。
それ故に,マック=ベインはその子供を拾い,育てようと思った。

約10日前,マック=ベインに雇われてやって来たラット=ビアンカという若い飛行機技師は,技師としてだけでなく,パイロットとしての腕も確かなものだった。
ジェームスやトミィ達は,自分たちを差し置いて,ベインが新型エンジンを積んだ機のテストをラットにやらせていたことを多少不満には感じていたが,ラットの人の良さと,腕の確かさに納得させられるのだった。
・・・・また,彼が飛行場を行き来するときに,常に影のように寄り添う蒼い髪の女性も,皆の目をひいていた。
その美しい容姿は,貴族の娘や 銀行家の娘だといった様々な噂を呼んでいた。

その日,ラット=ビアンカは明日の飛行試験に備えて,飛行機の点検を行っていた。
陽はもう既に沈みかけていた。
彼は夜が嫌いだった。
夜の闇は全てを包み込んでしまう。
人も街も,光も希望も・・・・そして独りになってしまう。
独りは怖かった。
だが,此処も怖かった。
見知らぬ人々の群。
誰もが愛想良く話しかけてくる。
誰もが親切にしてくれる。
それは とても暖かいモノ。
それは 見せかけのモノ。
それは いつまでも続かないモノ。
それは いつかは自分を見捨ててしまうモノ。
それは 自分勝手な思いこみなのかもしれない・・・・・・分からない。
だから怖かった。
だから早く部屋へ帰りたかった。
そこでじっと時が過ぎるのを待ちたかった。
夜が来る前に。
しかし・・・・,
「よお,ラット。もう終わったのか?」
トミィの声に,ラットは我に返った。
トミィ,ジェームス,アレンビー,そしてヒューイだった。
「明日,そいつを飛ばすんだろう?前祝いにさ,今晩夕飯つき合わないか?」
「え・・・・?」
「汚いけどさ,安くて美味い店があるんだよ。今日は彼女もいないんだろ?」
「たまには俺達と一緒にメシでも食おうぜ,・・・・な?」
陽はもう殆ど見えなくなっていた。
空は赤く染まっていた。
夜が近づいている。
ラットは口ごもってしまった。
「え・・・・でも・・・・」
「何も飲もう,って言ってるんじゃねえよ。飯を食うだけだよ。つきあえよ,な?」
トミィ達の背中越しにマック=ベインの声が響いた。
「そうだぞ,ラット。毎日々々機械とにらめっこだけでは体がもたんぞ。今夜はトミィ達と羽をのばしてこい」
”何故そんなことを言うんです?
知っているくせに,知っているくせに・・・・”
だが,ベインの深い瞳に見据えられると,ラットは何も言えなかった。
「分かりました,ベインさん・・・・・・」

マリィ=ハドソンは,その晩不機嫌だった。
久しぶりに彼女の夫と外で夕食を共にする約束が,あっさりと破られてしまったことと,昼間に飛行場で会った蒼い髪の女性のことが気にかかっていたからである。
薄暗い格納庫の中で,独り飛行機を整備しているラットを,いつも入り口の外からじっと見ているだけの女性。
それは,とても不思議な光景だった。
別に,好奇心という訳でもなく,彼女に声を掛けてみた。
「エミリーさん・・・・えぇっと,エミリー・・・・?」
「フォーカスよ。・・・・エミリー=フォーカス」
「エミリーさん・・・・ラットさん,あなたの・・・・・・」
「ビアンカよ。彼をファーストネームで呼ばないで」
「ご,ご免なさい。ただ,あなたとビアンカさんって・・・・,その・・・・・・」
「どんな関係かって?恋人同士だと思った?」
「・・・・え?」
思ってもみなかった,味気ない返事。
何を考えているんだろう?
表情が見えない,感情が感じられない女性だった。
「でも,こうして毎日一緒にいるんだから・・・・」
「一緒にいれば,恋人同士なわけ?」
「じゃあ,どうして?」
「私がラットを好きだから・・・・」
蒼い髪の女性,エミリー=フォーカスは,そこへやって来たラットと二言三言,言葉を交わすと,マリィには目もくれず,その場を去っていった。
好きな男がいる女なのに,飛行機乗りを愛する女なのに,どうしてああなれるのだろうか?
”嫌な女だ!”
マリィはそう思った。

その店は,お世辞にもきれいとは言い難かったが,その狭い店内には,仕事を終えた男達の笑い声と料理の香りに満ちていた。
トミィやラット達は,職場での苦労話や自慢話,自分たちのスポンサーの悪口に華を咲かせていた。
ラットにとって,それは心地よい時間であった。
しかし,心のどこかで常に,それは嘘だと感じていた。
誰も分かってはくれない。
此処にいる僕は僕じゃない。
みんな間違っている。
嫌われず,誰からもいい奴だって言われてる。
でも,ホントの僕は此処にはいない。
僕は何をしているんだろう?
僕は何を笑っているのだろう?
「あ〜,食った食った!やっぱしここのメシは旨いよなあ!」
トミィの馬鹿陽気な声で,ラットはそんなことを考えていた自分に気付いた。
目の前のグラスに残った水を一気に飲み干す。
「明日は早いんだろ,ラット。そろそろ行こうぜ!」
ジェームスの声にせかされてラットも皆に従って席を立った。
皆に合わせるのに必死で,何を話したのか,何を食べたのか,よく覚えていなかった。
”此処にはいたくない。此処にいてもいいんだろうか?”

「おい,ラット。何してんだ?行くぜ」
トミィの声に再び我に返る。
街はもうガス灯の明かりの中だった。
狭い路地を行き交う人々。
星の見えない深い灰色の空。
ラットは急に激しい頭痛を覚えた。
前を歩くトミィ達が人波の中に消えていくのが見えた。
焦点が合わない。
一瞬,トミィ達の姿が女性の姿とタブって見えた。
”行ってしまう・・・・・・!”
追いかけなくては。
だが,足が動かない。
あの人込みは,自分も,何もかも飲み込んでしまう恐怖だ。
「ああぁ,あぁ・・・・!」
声にならない声が洩れる。
息が詰まり,目の前がどんどん暗くなっていった。
「ま,待って・・・・くれ!」
支払いを済ませて送れてきたヒューイが,ラットの様子に気付いた。
「ラット?おい,大丈夫か?・・・・トミィ,ジム!!」
その声に気付いたトミィ達が振り向いた。
人混みに紛れて,数メートル後ろにいるラットの表情に,驚いた。
”何?・・・・怯えている?”
何が起きていたのか,トミィ達には理解できなかった。
トミィ達は我を忘れて,呆然とそれを見ていた。
やがてラットはその場に膝をつくと,まるで迷子の子供のように声をあげた。
「僕を置いて行かないでっ・・・・!!」
そして,目が光を失うと同時にそのまま前のめりになって崩れ落ちた。
周りにいた人々がその場を飛び退き,何事かと遠巻きにしてそこに横たわるラットを見ていた。
「ラット!!」
トミィ達が慌てて駆け寄る。
ラットは意識を失い,失禁し,先程胃に入れたモノを全て吐き戻し,まるで路地裏の片隅で朽ち果てていくドブ鼠のようだった。


何故僕は 生まれて来たんだろう?
何故夜は こんなに深いんだろう?
今僕に 何ができるんだろう?
哀しみは 何処へ消えるんだろう?






その3ヶ月前・・・・


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